
【生きることは動くこと】
動くことを援助する私たちは、生きることを援助するという事。
看護学生の時に基礎看護領域の大好きな先生が講義の中で話した言葉です。
「なんて素晴らしいこと言うのこの先生!!!」
・*:。✡*:゚( º∀º )・*:。✡*:゚
と、看護師になる前に、この仕事を目指した自分にわくわくしたのを覚えています。
ほんとにそんな看護が出来たらかっこいいーなー♪って
でも、現場に出る前から私は知っていました。
テキストに書いてある看護には限界があることを。

だってほら
ユイがこんなに小さい時があったように私も小さかったのさ。看護も介護も習ってなかったけど、小さいときからユイを抱っこして持ち上げてた。
腰痛になろうが、心が疲れようが、終わらない家族の介護。
その方法は、看護学生になってから習うのと同じ方法だった。

小さいときは、まぁ、してあげられるんです。

でも、いつまで持ち上げられるんだろぅ…抱えられるんだろぅ…というのは家族の本音。本気の悩み。
これから大きく育っていく子どもたちの家族の不安要素。
誕生日に、どんどん大きくなあれって、、、素直に言えなくて困るよね
どこまで大きくなっちゃうんだろうか…ってね
でもでも、看護師であってもね
持ち上げるのが難しくなった人の動きの援助を、どうしたらいいかなんて考えないし習わない。
型があるのょ。国家試験に受かるための知識が。
でも、現場では型通りにと、そうもいかない相手ばかりで、緊張が強すぎたり弱すぎたり、自分よりも身体が大きかったり、ね。
国家試験のための知識はあっても、現場で活かせる知恵にするのは難しいんだわぁ…

あー…
やぱ、看護ってここまでかぁ…
ほんとに困ってる人に何もできねぇなー
つって、看護師1年目は凹んでましたが、「よっしゃ、凹んでる場合じゃない。キネクラネオ学ぼう!」とゆうエンジンになりました。
学校で教わる
『安全、安楽、自立を考えた看護』
でも実際は
『全力でやってあげてる介助』
これでは誰のためにもならないケアで、共生が難しくなるんです。
介助を
してあげる方が偉かったり
される方が弱かったり
逆に、介助を
してあげる方は我慢してやんなきゃいけなかったり
される方はしてもらって当たり前と思ったり
ね。
だから、出来るなら、あたかもその人が自分でやったかのように、「してあげた!」とか「人にお世話になった感」みたいなのが少ないそんな介助であれば、良いよね。
自分で動くのが難しいところだけ、援助を加えて動きを可能にする。
そしたら
反省しても、反省しても終わりがない「ごめんなさい」が減って。
心から「ありがとう」って、心のゆとりが増える。
それから、お互いが楽になれるような動きの提案が今度はできるようになる。
これを可能にしてくれたのがキネクラネオでした。
今ある問題を紛らわして、隠して、なかったことにするような捻じれたケアをするのが共生や看護ではなくて
今ある問題をちゃんと見つけて、根本の問題を解決して、お互いのためになるケアをするのが看護、そして共生への第一歩。
キネクラネオが今も私に無限に可能なケアを学ばせてくれます。
看護師なった頃は結構絶望だったけど…
ここまで看護師やってきて、ようやく言葉と自分の態度が一致した。
(…ゆうても、まだ5年、笑)
【生きることは動くこと】その動くを援助する術を手に入れた今、自分が誇らしい(*´˘`)♡
たーのしーよ( ᐛ )♪
