援助が必要な人が立ち上がるときに、介助者はどこを観察しているだろうか…
半身麻痺の人が立ち上がるとき、どこを介助するか。私が看護師になるために学校で教えられたのは「健側(障害がない方)に車椅子を置く」でした。
でも、でも、こうゆう人にはこう!みたいな決まった技術って、個別性を観察できていなくて、すごく被介助者の可能性の幅を狭めて、「やっぱり出来ない」ってゆう失敗体験をさせてしまう事がほとんどだと思う。そして、その失敗から得る学びは、私は体験したことがない。公共施設だってトイレの配置は同じではないし、被介助者の身体の元気具合や疲労具合は毎日、もっと言えば1日の中でも変化するもの。履いてる靴も同じではないかもしれない。
ユイがいつも履いている靴だと、私は息ぎれせず介助は楽で、本人も沢山動ける。
でも、この間、大学の授業でお話する機会があり、ユイは少しピシャッとした服にしていたので靴もいつもとは違い、見た目キレイめな革の靴。革はふにゃふにゃしていてソフトな感じ。
まぁ、まぁ、まぁ、いつもどおり車椅子から車に乗るために、まず立つとゆう動きをとりましょっか。と動き出したものの…
なんと…全然立てない…技術的な介助の方法しかしらない看護師がよくゆう、全介助の2者介助レベル。
なぜ、いつもと同じ向きで車に乗ろうとしているのに?
なぜ、疲れてもないエネルギーが残っている午前中に?
いつもと同じなのに、いつもと違っている環境は何だろう?
2人で分析してみると、いつもと違うのは靴だったんです。いつもなら、靴がしっかりしているので、体の重さを移すために、靴の中でユイは「押す」とゆう動きをしていたみたい。その日は柔らかいソフトな感じの靴を履いていたため、動けなくなってしまった。とゆうわけ…。
靴を履き替えて動くための環境を整えると、あっとゆうまに車に乗り込めた。
靴の中で何が起こっているのか、被介助者の中で何が起こっているのか。
靴とゆう外側の環境や、被介助者、または介助者の内側の環境がどうなっているのか…そんなことが観察できると技術に囚われず、無限大なパターンの無限大な可能性をお互いが提供しあえます。
環境整備って?
個別性って?
安楽って?
介助って?
学校で教わった言葉たちって、自分でちゃんと説明できるくらい自分の中で意味のある言葉になってるのかな?
私はキネステティク・クラシック・ネオを学ぶまでは出来てなかった。
セルフケアの能力が高まると、自分が楽になる。
相手も楽にしてあげたくなる。
そしてお互いが楽になっていく。
学校で習った技術には限界があったけど、キネステティク・クラシック・ネオは可能性の幅を広げてくれる。チャレンジしたくなる。失敗しても、他の方法でチャレンジできる。そして、その失敗から学ぶものが大きい。今回セミナーを開催してみて改めてそう思いました。
学習はつづく。
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2019.06.27
ニナ タイムラインより


